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古坑の台湾コーヒー  雲林県古坑郷  (転載)

台湾について
以下は転載です (06,3,1)


http://www.sinorama.com.tw/jp/current_issue/show_issue_text.php3?id=200639503026j.txt&show=1&mid=200603200602200601
古坑の台湾コーヒー

ここ数年、雲林県古坑郷と言えば誰もがコーヒーを思い浮かべるようになった。静かな農村が、コーヒーで知られる景勝地になったのである。

雲林県古坑郷の荷苞山は標高280メートル、山上には地母廟がある。この大地の女神は地元の人々の信仰の中心でもあり、コーヒー園の守り神でもある。

地母廟の傍らには「巴登コーヒー」という喫茶店があり、毎朝8時半から営業している。思いがけないことだが、山村のこの小さな店が古坑コーヒーのブームを巻き起こしたのである。店主の張莱恩さんは、20年も台湾コーヒーに没頭してきた。

コーヒーの故郷をつくる
歴史書によると、清の光緒年間、イギリスの茶商が中国とインドを行き来する間に台湾に立ち寄り、その風土や気候が中南米に似ていることに気づいてコーヒーの木100本を台北県の付近に植えた。台湾最初のコーヒーの木だが、残念なことに管理が悪くて枯れてしまった。

日本時代になると、日本人は経済価値の高いコーヒーの栽培を推進し、花蓮の玉里、嘉義の中埔、雲林の古坑などに大量に植えた。そしてコーヒー豆加工場を設け、生産されたコーヒーを日本に出荷した。当時、荷苞山のコーヒー栽培面積は300ヘクタールに達し「極東最大のコーヒー工場」とも呼ばれた。

だが、コーヒーは日本向けで、台湾では普及しなかった。戦後の国民政府の時代になると、コーヒー生産は衰退し、山に何本かの木が残るのみとなった。

古坑の多くの農家と同様、張莱恩さんの父親も、オレンジやミカンに植え替え、少しだけ自家用にコーヒーの木を残した。父親は独自の方法でコーヒーを入れていた。実を中華鍋で炒め、石臼で挽き、布袋に入れて薬缶で煮出していたそうだ。

子供の頃から茶よりコーヒーが好きだった張莱恩さんは、80年代に0.5ヘクタールのコーヒー畑を引き継いだ。初めの頃は豆を買ってくれる喫茶店はなく、しかたなく缶コーヒーのメーカーに卸していた。

山村に漂うコーヒーの香り
コーヒーの前途が見えない山村で、彼は情熱だけを頼りに自分で販売することを決意した。そして1984年に地母廟の隣りに喫茶店「巴登」を開いたのである。

「十数年前、山の中に喫茶店を開くというのは、モンゴルの草原に開くのと同じでした。周囲に民家は数軒しかなく、1日に2杯も売れれば上々でした」と苦笑する。

客の来ない日が続いた。だが、張さんは宣伝もせず、内装に凝ることもないまま、飲んだ人が味の良さを知ってくれればいいと思って続けてきた。古坑コーヒーは、砂糖を入れずに飲むと口の中に自然の甘さとコクと香りが広がる。

1985年、張莱恩さんの苦労が少し実った。焙煎した豆が台湾全省食品評鑑会で金賞を受賞し、翌年には政府から十大優秀農家の一人に選ばれたのである。

彼はコーヒーの苗を育て、有機肥料で育て、実を採集して皮を取り、乾燥させて焙煎してきた。こうして入れたコーヒーが高い香りを放てば、それだけで苦労は報われた。彼は台湾で初めてコーヒー産業の川上(コーヒー栽培)から加工(焙煎)、そして川下(販売)までのすべてを一人で行なった「達人」と言えるだろう。

小さな店で売り始めた1杯200元の巴登コーヒーだが、国際ブランドとの競争は恐れていない。少しずつ忠実な顧客が増え、マスコミも「雲林コーヒー」や「台湾コーヒー」を競って紹介してきた。そして95年、巴登コーヒーは小さな山村を飛び出し、台北や新竹、台中、高雄などに10支店を設け、年間生産量2万キロ、従業員数100人の企業へと成長したのである。

「8年の抗日戦争と言いますが、私の苦労は18年も夫を待ち続けた王宝釧に相当します」彼の人生は、苦味の後に甘みが来るコーヒーに似ている。

小さな豆の大きな魅力
小さなコーヒー豆は、古坑の住民たちが町を復興する際にも大きな力を発揮した。台湾大地震や台風の被害に遭った古坑では、6年前から「台湾コーヒー」を中心に産業の転換を図ってきたのである。

古坑郷役場はまず「古坑荷苞山文化活動」を開催して古坑のコーヒーを紹介した。2001年には農業委員会に予算を申請し、タケノコ加工場を建てる予定だった土地に美しい庭のある農業レジャーセンターを建て、加比山(台湾語でコーヒー山の意味)というブランドを打ち出した。そして2003年、雲林県政府は古坑役場によるコーヒー・フェスティバル開催に協力し、台湾コーヒーのブームが巻き起こった。

古坑で最も風景の美しい華山地区の農家もコーヒーブームを目の当たりにして、次々と喫茶店を開き始めた。今では荷苞山から華山へ向かう数キロの道沿いに、さまざまなスタイルの喫茶店やカフェが並び、夕暮れ時、多くの旅行者が山々に囲まれてコーヒーを味わっている。

現在、華山地域のカフェは50軒を超え、古坑郷のコーヒー栽培面積も数ヘクタールから200ヘクタールに増えた。古坑コーヒーや台湾コーヒーの名で売られているブランドは30種類を超える。

2004年10月、古坑の名を付けたインスタント・コーヒーに輸入豆が混入していると報じられ、大きな問題になったが、多くの消費者はやはり台湾コーヒーにチャンスを与えようとしている。この3年、コーヒーは古坑農協に1億元以上のビジネスチャンスをもたらし、昨年の収益は全台湾の農協のトップだった。

「以前は農業レジャーセンターの周辺には何もなかったのですが、コーヒーブームのおかげでオレンジやグアバも売れるようになり、地価も3割上昇しました。余所の土地の人もここに喫茶店を開こうとするからです」古坑郷農協幹事長の袁靖雄さんによると、毎月少なくとも500台の観光バスが古坑を訪れており、今までコーヒーなど口にしたことのなかったお年寄りも台湾コーヒーを飲んでいくという。

ブランド戦国時代
コーヒーは特殊な経済作物で、うまく管理すれば1本の木の年間生産量は6キロまで増やせる。最大のコストは収穫の人件費だ。雲林県農業局は栽培面積が増えすぎて需給バランスが崩れるのを心配し、今は新たな栽培や拡張を奨励していない。だが台湾コーヒーのブームは南投や嘉義、台南、屏東などへ広がり、すでに戦国時代を迎えている。

統計によると、台湾のコーヒーの市場規模は年間約135億元、そのうち8割以上は輸入品だ。スタートしたばかりの台湾コーヒーは、量と価格の面でまだ輸入物とは肩を並べることはできない。

長い歴史を経てきた古坑の台湾コーヒーは新しい生命を得た。その豊かな香りが産業の垣根を越えて独特のコーヒー文化を生み出せるかどうか、コーヒーを愛する多くの人から注目されている。


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