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台湾紀行】浸水営古道 高雄市在住 西 豊穣 (転載)

台湾について
以下は「メルマガ台湾の声」より転載です


台湾紀行】浸水営古道

                    高雄市在住 西 豊穣

浸水営古道は三つの動植物自然保護区を併せ持ち、台湾の数ある古道の中でもその沿線の樹相が季節に拘わらず最も美しい古道の一つです。加えて、西側(台湾海峡側)登山口から入ると、東側(太平洋側)に向かい緩やかに下っていきますので、その間十数キロありますが、一般のハイカーでも楽に一日で歩き通せます。又、最近では南台湾の非常に人気のあるマウンテンバイクのコースの一つになりつつあります。更に、古道沿線とその周辺に原住民旧部落、清代、日本時代の遺跡・遺構が豊富に残っているという特徴があります。昨年暮れ、行政院林務局はこれらの遺跡・遺構を紹介する立派な案内板を各処に設置、この古道の散策と探索を更に興味深いものとしています。実は、浸水営古道は台湾の古道中、最も古い歴史を有しており、これがこの古道の最大の特異性なのです。

浸水営古道は、高雄から墾丁国家公園へ南下して行く際に必ず通過する屏東県枋寮郷を西側起点として、中央山脈の最南部を横断して太平洋に面した台東県大武郷に抜ける、往時は全長約50キロの「幹線」でした。日本統治時代以前は西側起点にあった清朝軍駐屯地の名に因んで「三條侖道」と謂われていたのですが、日本の台湾領有後は、古道最高点近くにあった同じく清軍駐屯地「浸水営」に因んで、パイワン族に対する「浸水営越嶺警備道」と改称され、古道となった今でもその名をそのまま使っています。「浸水」とは文字通り水に浸るの意で、この古道は台湾最南部の恒春半島の北端を横断しており海洋からの空気の流入が激しく、一年中霧が発生し易く湿っぽい土地柄であることに拠ります。お陰で、この古道周辺は山蛭のメッカ、山蛭とは何か知らないハイカーは不必要に怖がることになります。

余談ですが、枋寮は後に第三代台湾総督になる乃木希典(当時中将)が、下関条約締結(1895年、明治28年)後、清軍残存部隊の討掃の為に上陸した場所で日本時代は上陸記念碑があったのですが、戦後廃棄されました。1999年(平成11年)、その上陸記念碑があった場所とは少し異なるのですが、枋寮郷公所が海岸縁に小さな記念公園を作りました。公園内の土盛の上に円盤がはめ込まれておりそこに乃木希典の名前と共に日清戦争終結から最後の台湾に於ける討掃戦までの経緯が簡単に紹介されています。枋寮駅の南側の一角は、現在日本風に言えば町興しの一環として芸術村として整備されているのですが、三年程前そこを訪ねた際、枋寮を紹介したパンフレットを見ていて偶々この公園の存在を知ったのです。それらしき公園はすぐに見つかりましたが、私が訪ね当てた当時は公園入り口と土盛側面にあったはずの公園名を記したプレートが明らかに故意に引き剥がされており、果たして上陸記念公園なのかどうかはすぐに判りませんでした。因みに、後の日露戦争に於ける乃木大将と敵の将軍ステッセルの所謂「出師営の会見」(1905年、明治38年)の「営」と浸水営の「営」とは同義、軍隊の駐屯地を意味します。

浸水営古道は台湾の古道中、最も長命だった古道と謂われています。即ち、現在の西側最下端の登山歩道入り口の案内板には、約五百年に渉り台湾海峡側と太平洋側を繋ぎ中央山脈を横断する最南部の唯一の幹線として機能し、その間プユマ族、パイワン族、オランダ人、漢人、平埔族(漢化した原住民族)、日本人により利用されたという説明があります。この古道が専ら原住民族の交易道として利用されていた当時、プユマ族はパイワン族、アミ族と比較して人口が少なかった割には王権が強く、これら二部族はプユマ族に対し進貢を義務付けられており、その間、この古道はプユマ族の管理・保護下にあった為、台湾海峡平野部に居住するマカタオ族(今現在は平埔族に分類される)と漢人が安全に太平洋側に移動出来たと云います。その後オランダ人が入植、この古道沿線上でも原住民族との間で衝突を繰り返していましたが、鄭氏がオランダを駆逐して以降は再度この古道にも平和が回復、原住民と漢人の交易が更に盛んになり枋寮はその交易基地として栄えたそうです。
清朝は牡丹社事件(1871年、明治4年)以降、当初の消極的な台湾経営から積極経営に転換、中央山脈を跨ぐ「開山撫番」道を開鑿し軍道として整備していきますが、この古道上にも駐屯地を築いていきます。この為、この古道上に於けるプユマ族の勢力は急速に減退、その後、日本の台湾領有以降は対原住民族警備道としての整備が進んで行きます。清朝に依る開山撫番道が日本の台湾領有後殆ど利用されず忽ち荒廃していった中で、唯一幹線として太平洋戦争後まで利用されたのがこの浸水営古道で、その意味でも長寿を誇ったわけです。

長らく利用されてきた一番の理由は実際は地理的な要因が大きく、元々は西と東を結ぶこの交易道が中央山脈の最低部を横断していたからに他なりません。日本時代、この古道は原住民族警備道として警備する側の日本人として重要な位置にあったのは、台湾総督が時折視察したことからも覗われます。警備道の最高点は標高1,430メートル、現在の西側登山歩道入り口から40分程入った場所で当時の高雄州と台東廳の境界なのですが、台湾総督視察の折は、高雄州知事とその随行官員がこの境界まで迎えに出たそうです。今現在実際その地に立つと、当時の台湾総督がよくぞ台東からこんな所まで登ってきたものだと驚かざるを得ないのですが、幹線でもあり標高が比較的低い為色々な意味で安全だったと云うことだろうと考えられます。又、別な意味では、1914年(大正3年)、当時総督府が「南蕃」と呼んでいたパイワン族に対する武器没収政策に抗した古道沿線の三部落の原住民が浸水営駐在所を含む三箇所の駐在所を襲撃し警官とその家族を虐殺、これに対し総督府は軍艦二隻、野砲四個部隊、兵隊・警官千五百人強を投入、これら三部落を焼き払うという事件(「浸水営事件」)が、総督府をしてこの地域を特に警戒させたのだとも考えられます。

戦後、枋寮から更に南に下った枋山から太平洋側に抜ける南廻公路(省道9号線)が建設された後は幹線としての機能を喪失、急速に荒廃の一途を辿ります。更に、この古道の丁度東西中央に位置する大樹林山(標高1,687メートル)は戦後、大漢山と改められ、これより西側に古道に沿う形で軍用訓練道を建設、更に、この山の頂上にレーダー基地が設置されます。これが現在の大漢山林道(屏東県道185号線)で、古道西側はほぼ完全に今はコンクリート製のこの林道下に埋没することになります。つまり、大漢山林道も実はその殆どが浸水営古道そのものなのです。

現在国家歩道として整備され登山道として歩かれている浸水営古道は二箇所あります。一つは、西側起点近く、大漢林道の起点でもある枋寮郷新開村に登山口を持つ一本で、全長2キロ強。この一本を歩くだけでも古道の雰囲気を十分に味わえます。もう一本は大漢林道を23キロ程辿った地点に登山口を持ちそのまま太平洋側に下っていくもので、登山道としての東側終点は、以前はパイワン族の小さな集落である大武郷加羅板部落、或いはそこから更に歩いて海岸縁の大武駅まで歩かれていたのですが、最近は古道を完全に下り切った地点である、大武渓の支流、茶茶牙頓渓(日本時代表記:チアチアカトアン渓)入り口まで車を乗り入れており、これだと実際歩く距離は全行程14キロ程しかありません。現在浸水営古道として人口に膾炙し専ら歩かれているのはこの後者の一本で、中央山脈東側を太平洋に向かって下っていくだけの行程になる為、台東側から入山し上り一方の行程を辿るハイカーは殆どいません。又、以下に紹介する遺跡・遺構が豊富なのも後者の方ですが、この場合、西側、東側のどちら側から入山するにせよ、出口側に車を手配しておく必要があるところが不便なところです。私の場合は二回に分けて各々西側、東側から入り、中間地点に相当する出水坡で引き返す方法を取りました。

旧古道沿線上には嘗て、力里社(日本時代表記:リキリキ)、古里巴保諾社(日本時代表記:コリバボノ)、出水坡社、姑仔崙社の六つのパイワン族部落が点在していましたが、現在一般のハイカーが大漢山林道沿線上、又は登山歩道上でこれら旧部落遺構を簡便に観察出来る場所は残念ながら一箇所もありません。林道、又は登山歩道からかなり外れている為、古道を専門に研究している方か原住民族の方の同行が必要になります。唯一例外は、パイワン族頭目の住居跡が大漢山林道下部にある帰化門社案内板のすぐ横で観察できますが、この帰化門社は、上述した浸水営事件の後、駐在所襲撃の主力であったリキリキ社の勢力を殺ぐ為に同部落の一部が強制移住させられた場所です。

オリジナルの古道沿線上の清軍駐屯地跡(「営盤」)は、西側起点から、石頭営、[土>嵌]頭営(かんとうえい)、帰化門営、六儀社営、大樹前営、大樹林営(浸水営)、出水坡営、渓底営の八箇所を数えます。これらは、既に道路、畑、果樹園等現代の生活空間にすっかり埋没してしまったもの、大漢山林道沿線に僅かに痕跡を留めるもの、現在の登山歩道沿線上にあり規模も大きく明確に残っているのものというように遺跡としての形態は様々ですが、最初の石頭営を除けば林務局がこれらの遺跡の傍に案内板を設置しましたので一般の人にもそれらの位置が判り易くなりました。

営設営から既に130年ぐらい経っていますので、実際残っているものは荒く積み上げられた低い石塁に過ぎません。では、その案内板まで行けば営盤を観察出来るかというと、これは相当難しいです。まず、日本時代に営盤を襲って駐在所を設置した例(大樹前営、浸水営、出水坡営、渓底営)では、これら後代の建築物の石垣と混在しており専門家でなければ区別が付かないのが一つ、その他の例では藪、樹林の中に埋没しており、林務局もそこまでは親切にあらず、自分で見当を付けて捜し廻らなければならないというのがもう一つの理由です。それだけに探索、探検の妙味があっておもしろいとも言えます。

日本時代の駐在所跡を確認出来るのは、大漢山林道沿線で、[土>嵌]頭営、帰化門、大樹林、登山歩道上では、浸水営、コリバボノ、出水坡、新姑仔崙、姑仔崙の八箇所で、コリバボノ駐在所跡を除いて林務局の案内板が設置されています。後、日本時代の遺跡としては登山歩道東側起点のチアチアカトアン渓に嘗て掛かっていた姑仔崙吊橋の「大正十五年三月竣効」の銘を持つ橋桁が残っています。戦後も新たに橋桁を建設、掛け直しますがこれも今は廃棄され、今年一月私が訪ねた時は更に新しい近代的な吊橋が丁度完成した日でした。総じて、古道沿線上で最大規模の遺跡・遺構群を観察出来るのは現在の登山歩道のほぼ中間点になる出水坡で、営盤、駐在所遺構に加え、貯水槽、国旗掲揚台、神社の遺構も観察出来ます。

以上概観してきたように、この浸水営古道の歴史は台湾の歴史そのものを体現していると言えます。そして現在、この古道は台湾の民主化を背景に、健康登山歩道として、自然散策・観察道として、更に歴史探訪・研究道として見事に復活しつつあることを実感出来ます。

山登りはどうも苦手という方の為に一言。大漢山林道は、台湾の他の林道が年々廃棄、荒廃の道を辿る中、前述のように頂上に軍用レーダーを持つ為よく整備されており一般の車でも乗り入れが可能です。加えて、登山歩道に劣らず林道沿線の樹相も同様に美しく、南台湾であるにも拘わらず紅葉も見事です。台湾最南部の中央山脈の標高は二千メートル足らず、しかしながらその山の深さと荒々しさは同じ中央山脈の三千メートルを超える山岳が鎮座する中央部に決して引けを取りません。林道を車で走るだけでもそんな雄大な南台湾の景観を十分満喫できます。ドライブに加えて、林道沿線に設置された各案内板で車を停め暫し説明を読むだけでも立派な古道探索に成り得ることを付け加えておきます。

最後に、浸水営古道沿線とその周辺に設置された案内板の説明は、この古道の最新の研究成果であり、2003年度林務局委託研究事業の一つである楊南郡氏の「浸水営古道人文史蹟調査期末報告」書に依っています。



西豊穣 台湾紀行古道シリーズ バックナンバー

2005/12/23【台湾紀行】崑崙拗古道
http://www.emaga.com/bn/?2005120083972080008877.3407
2005/04/26【台湾紀行】八通関古道
http://www.emaga.com/bn/?2005040084791224010815.3407
2005/02/25【台湾紀行】霞喀羅古道(石鹿古道)
http://www.emaga.com/bn/?2005020083026676007324.3407
2005/01/06【台湾紀行】能高越嶺古道
http://www.emaga.com/bn/?2005010010046551008909.3407  

『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
『日本之声』http://groups.yahoo.com/group/nihonnokoe Big5漢文
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