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【感想文】在日台湾同郷会のサマーキャンプに参加した感想 留学生 廖 欽彬 (転載)

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【感想文】在日台湾同郷会のサマーキャンプに参加した感想

      自己犠牲的愛をめぐって


             留学生 廖 欽彬

 私は日本に留学に来るまで、台湾自由民主化に関する歴史にほとんど関心を持っていなかった。だが、「台湾人」でなければならない日々の中で、改めて台湾の歴史的現実を理解する必要に迫れた。在日台湾同郷会という名称を初めて知ったのも、台湾独立建国聯盟のホームページにある前会長・林建良先生のコラムを通してであった。

本キャンプに参加し、もっとも感銘を受けたのは、政治的迫害(白色テロ)を被ってきた先人たちの無私なる愛、すなわち我々台湾人への自己犠牲的愛である。しかるに、それは漸次、会員である先輩たちの、先人たちの悲劇的英雄の姿を尊崇してその意志を継承し、我々を敵の脅威や侵略から守ろうとする無私なる愛に引き継がれる。こうした転換は、『台湾青年』の歴史的役割からも看取できると思われる。『台湾青年』は、台湾が、蒋政権の崩壊から、前大統領・李登輝氏の自由民主化の運動を経て、さらにいわゆる台湾人の大統領による台湾統治に至ったことによって、停刊することとなったのである。台湾を外来政権から解放し、その独立自治権を台湾人の手に取り戻すのが、当機関紙の元来の目的であり、理念であった。そして、それが一応達成されたというのが停刊の理由であった。
第四九九号『台湾青年』(二〇〇二年五月)の公告に、「われわれは、台湾独立運動の最終目的、すなわち自由で民主的な台湾共和国が成立し、台湾が世界の国ぐにと平等な独立国として国際社会への参入を果たす日まで、全力を尽くして闘い続けます」とある。これはまさに先人たちの悲劇を超克する、先輩たちの無私なる愛、すなわち利他精神の象徴である。利他の「他」とは、ほかの未だ安穏な生活を送られない台湾人のみならず、台湾人以外の民族や国家社会をも指す。なぜなら、右の声明の通り、国際社会の一員としての台湾は、国際社会の平和を将来するために、必然に自己犠牲的愛に働きかけられて全力を尽くし、平和を阻害する敵と戦い続けるからである。これは台湾共和国の国際社会への参入に他ならない。先輩たちは無私なる愛に駆使せられ、対外的には、国際社会の平和を推進する連帯責任を果たし、対内的には、民進党と国民党(緑と藍)との対立やその政治的理念の相違を問わず、台湾人が幸福に導かれるのに腐心している(会長の挨拶を参照)。

 にもかかわらず、我々台湾人は世界の国々から、政治における自由民主化の成果を賞賛されつつも、国際社会の舞台において依然として不自由なる「流浪の民」であることは、誰しも否定できないのであろう。我々は、国際社会への貢献どころか、自らの生存や自由意志でさえ確保できない。かかる運命を背負う同胞を憐れむべく、同胞が未だ不安や苦痛から脱出できない以上、自らが安逸な生活を送られないという先輩たちの自己犠牲的愛は、自らの学識で台湾人に何かを貢献しようとする自負をもって本活動に臨んだ私をして慙愧せしめたのである。本キャンプの研修を通じて、先輩たちが我々留学生に希求するのは、自己犠牲的愛の実践に他ならなかった。これまで何をするも順風満帆で、思うままに我が人生を歩んできて、何一つ阻害を知らない私は、この愛を前にして自らの傲慢や不謙虚さを懺悔せずにはいられなかった。

かくして、我々は先輩たちとともに、台湾人のみならず、さらに範囲を拡大してほかの民族にも幸福を得せしめるよう自己犠牲的愛を遂行することに至るのである。かかる先人や先輩たちの自己犠牲的愛への恩返しとして、今後自らの本分を果たすかたわら、同胞の危機や苦難からの脱出を助けるために、自己を犠牲にするも惜しまない利他行を自らの責務としたい。

私の台湾に対する以上のような関心は、決して先人や先輩たちに対する阿諛追従でもなければ、台湾民族への私愛から出たものでもない。それはあくまで自己犠牲的愛に導かれて出たものである。同胞を危機や苦難から助け出すというのは、同時に我々以外の民族を苦痛から救い出すことでもある。前述のように、台湾共和国の責務は国際社会への参与であり、世界の平和をもたらすことにある。だが、そのためには、ほかの国々もまた同様でなければならない。したがって、世界の平和を実現するためには、各民族の自己犠牲的愛が必須条件となるのである。このように考えると、我々の存在は、ただ自(台湾民族)と他(他民族)とが自己犠牲的愛によって理想的境地、つまり共存共栄の境地に到達する時点においてのみ、成立するのである。

 しかし、世界の平和と各民族の利益とが常に両立できないのも、また事実である。だとすれば、我々が世界の平和、つまり自他の共存共栄という理想的境地に達するためには、平和を阻害する敵に対して愛ゆえの戦いを実践しなければならない。つまり、自己犠牲的愛は、敵と戦う愛に他ならない。その敵とは、むろん我々台湾人と対立する他民族における根元悪のみならず、我々自身における根元悪、すなわち世界の平和を裏切る存在論的悪の構造をも指す。敵と戦う愛の実践は、我々が自己の内外における敵と戦う愛の実践である。このように見てくると、自己犠牲的愛は、先人のような自己や自民族の生存のために、自己を犠牲にするという即自的愛(自己愛)に止まるものではない。それは、先輩たちのような自己、自民族、さらに他民族の生存のために、自己を犠牲にする対自的愛(他者愛)に至ってはじめて完成せられる。他者愛こそ、真に我々の内外における敵を滅却させる自己犠牲的愛に他ならないのである。

二〇〇六年六月二十六日

『台湾の声』  http://www.emaga.com/info/3407.html

『日本之声』  http://groups.yahoo.com/group/nihonnokoe  (Big5漢文)
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