第5回台湾出身戦歿者慰霊祭のご案内

講演会 行事 案内
第5回台湾出身戦歿者慰霊祭のご案内

ご高承のように、かつての大東亜戦争には約20万名の台湾出身者が軍人・軍属として出征し、30,304名がその尊い命を日本国に捧げられました。現在、靖国神社にはその内の27,864名の方々がご祭神としてお祀りされ、朝に夕に神饌を供え、一日も欠かすことなく慰霊の誠が捧げられております。

靖国神社では戦友会やご遺族による慰霊祭が斎行されておりますが、これまで台湾出身戦歿者慰霊祭は斎行されていなかったことから、李登輝学校研修団で李登輝元総統の薫陶を受けた李登輝学校日本校友会が中心となり、平成17年12月4日に戦後初の「台湾出身

戦歿者慰霊祭」を催し、毎年12月に催してまいりました。
つきましては、本年も引き続き「台湾出身戦歿者慰霊祭」を斎行いたしますので、ここに謹んでご案内申し上げます。

年末ご多忙のこととは存じますが、下記のような次第で執り行いますので、日台の友人知人の方をお誘い合わせの上ご参列くださいますようお願い申し上げます。

平成21年11月吉日
李登輝学校日本校友会理事長 片木 裕一



■期 日:平成21年12月13日(日)午後12時30分 靖国神社・参集殿に集合

■会 場:靖国神社本殿 午後1時 昇殿参拝・慰霊祭
東京都千代田区九段北3-1-1 (TEL 03-3261-8326)
【交通】JR中央線・総武線:市ヶ谷駅、飯田橋駅(東口) 徒歩13分
地下鉄:半蔵門線・東西線・都営新宿線 九段下駅(出口1) 徒歩8分
都営新宿線 市ヶ谷駅(A4出口) 徒歩10分
有楽町線・南北線 市ヶ谷駅(出口1=A-1)徒歩10分

■参加費:1,000円(玉串料)
*今年は講演会・懇親会はございません。

■申込み:FAX、メールにて
FAX: 03-3868-2101
E-mail:info@ritouki.jp

■締 切:12月11日(金)

李登輝学校日本校友会
〒113-0033 東京都文京区本郷2-36-9 西ビル2A 日本李登輝友の会内
TEL:03-3868-2111  FAX:03-3868-2101   E-mail:info@ritouki.jp
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第5回台湾出身戦歿者慰霊祭 参列申込書

お名前                電話            





『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html
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コメント

Re: 共栄診療所に関して

> こんにちは.私は陳と申します.
> 今は大学生です.
> レポートのテーマは共栄診療所に関して内容です.
> インターネットで探しています.
> でも、共栄とか共栄診療所の意味は全然わかりません.
> ここの内容は昔日本のことがありますから、
> 共栄診療所の事を知れば、教えていただきませんか.
> 本当に ありがとうございます.

http://my.so-net.net.tw/katakura/nihon/asahi/rika.html
山郷の診療所を訪ねるー共栄診療所(台東県・台東市)
プユマ族の住む町で

                   台東県には台湾の先住民族である人々が多く住んでいる。戦前、日本人は彼らを「高砂族」と呼んだが、戦後、体制が変わると「山地人」や「山地同胞」などという呼称が用いられるようになった。そして、現在は彼ら自身の強い希望もあって、中国語ではもっとも差別感が少ないとされる「原住民」という表現を用いるのが一般的となっている。

 今回、私が訪れたのは、台東県卑南郷にある利嘉村。ここは台東市から西に位置する小さな集落だ。知本(カテボル)集落と同様、住民の大半はプユマ族の人々である。

 この集落は、もともとはプユマの言葉で「リカボン」といい、それを簡略化して「リカ」と呼ぶのが一般的だったという。しかし、外来の為政者たちは、常にみずからの言語に従って、この地名を改めてきた。戦前、日本人は「呂家(ろか)」とした。そして、戦後、台湾へやってきた国民党政権は「利嘉(リージア)」とそれを改めた。つまり、いつの時代も土地の住民の言葉は尊重されることはなく、時間は流れてきたのである。

村人の健康を守る

 さて、この集落には日本統治時代に建てられた診療所が残っているという。訪ねてみると、それは純和風の美しい木造家屋であった。建物の前には大きな相思樹が茂り、涼しい木陰を供している。

 現在、ここを管理しているのは甘共栄氏。生まれは彰化で、戦後間もない頃にこの土地へ移り住んできたのだという。終戦によって、日本人が所有していた資産は、すべて大陸から渡ってきた国民党政権によって「接収」されたが、氏はその際に政府からここを引き受け、共栄診療所として再開業した。それから半世紀以上に渡って、集落で唯一の診療所の主として信頼を集め、人々の健康を守ってきた人物である。

 突然の訪問であったのにも関わらず、氏は笑顔をもって迎えてくれた。ご好意で、家屋の内までも案内してもらう。タタミ敷きの部屋はもちろん、床の間までもがそのままの姿で残っている。築60年以上を経ているとはいうものの、ヒノキ材で造られた家屋は歳月とともに独特の味わいを漂わせる。氏によれば、診療室内の机や薬品棚なども、戦前から使われているものを用いているという。

 屋内の撮影を済ませて、再び庭先へ出てみる。建物は強い陽射しに照らされていた。夏季に限らず、わずかに差し込んだ木洩れ陽にさえ「南国」を感じてしまう台湾だが、そんな陽気の中でも、この建物は、暑さを感じさせない。「これもまた、ヒノキの家の効用かもしれないね」と、氏は笑みを浮かべながらそうつぶやいた。

人生の一部分を重ねあわせた二人

 日本統治時代にこの診療所の主だった人物は東屋敷錦之助という医師だった。しかし、彼はすでに他界して久しい。甘共栄氏によれば、この建物を譲り受けた時には、すでに還暦を迎える頃だったという。戦後、東屋敷氏がこの地を訪れる機会はやってこなかった。

 私がその人物に興味を示すと、氏は数年前に東屋敷氏の遺族がここを訪ねてきた時の様子を克明に語ってくれた。そして、その時に撮ったという写真を見せてあげようと言い残して席をたった。しばらく押し入れを開け閉めする音などを聞きながら待っていると、部屋の奥から大きなアルバムを抱えた氏が笑顔とともに現れた。アルバムは氏の人生の思い出が詰まった一冊であった。

 残念ながら、そのスナップ写真はどこかへ紛れ込んでしまったようだったが、懐かしそうにその時の様子を語る氏の表情は穏やかで、そこには当時、日本人と台湾人の間に横たわっていた支配者・被支配者の「哀しい関係」については、何も感じとることはできなかった。

 東屋敷氏と甘共栄氏がここにいたのは、終戦から引き揚げまでの半年あまり。その時間というのは、人生の長さから考えれば、ほんのわずかなものであろう。しかし、たとえわずかであっても、この二人がお互いの人生の一部分を共有したという事実は疑い入れ得ない。二人の間においては、国境や国籍などは全く意味をなしていないのである。

 私が台東地方の取材から戻って、一週間が過ぎたある日。一通の便りが拙宅に舞い込んだ。封を開けてみると、毛筆で記された丁寧な日本語の文面と、数人の日本人に囲まれながら診療所の前で楽しそうに歓談する氏のスナップ写真が入っていた。

2009/11/30 (Mon) 21:59 | 阿貴 #- | URL | 編集
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2009/11/30 (Mon) 16:46 | # | | 編集

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